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長崎くんちコラム(第2回)

花は長崎人の心意気

庭先まわり

 長崎くんち(以下くんち)では、諏訪神社や御旅所といった本場所での奉納を済ませた後、街に繰り出し、個人宅や商店に出し物を呈上してまわります。「庭を打つ」ともいいます。

本場所が終了したら街に繰り出して庭先まわり
 ▲本場所が終了したら街に繰り出して庭先まわり

 そもそも庭先まわりは、諏訪神社に奉納した踊りを町の人々にも呈上し、お祝い申しあげるという趣旨です。決して門付けのようなものではありません。
 1軒用のショートバージョンが繰り返し演じられます。天気によっても左右されますが、くんち3日間で曳き物はおよそ1500から2000件、本踊はおよそ2000から3000件近く庭を打ちます。

唐人パッチ姿の帳面方(丹羽漢吉画)
 ▲唐人パッチ姿の帳面方(丹羽漢吉画)

 本場所から庭先まわりに移ると、町の世話役は山高帽に紋付き袴の正装から、袴を脱ぎ着物の裾を尻からげにして、唐人パッチ姿になります。唐人パッチは唐船持ち渡りの紗綾(さや)で作りました。紗綾とは、表面がなめらかで光沢のある絹織物の一種で、裾さばきがいいのです。前を開けず、紐も付けず、腰巻のようにぐっと脇に挟み込むものでした。近頃それでは用足しに不便だと、ステテコのような仕立のものが多くなりました。
 頭は英国製の山高帽ですから、和華蘭ではなく和華英でしょうか。観光客などから見れば珍妙な恰好でしょうが、異国文化の交じり合った長崎らしい風情だといえます。草履は抜けないようにウコンの紐でアド掛けをします。くんちの頃はまだまだ暑く、山高帽は「蒸れますバイ」と脱いでは頭の汗を拭く姿も見られます。
 この唐人パッチ姿の帳面方(ちょうめんかた)が「〇〇町です。呈上にあがりました」と個人宅や商店に先ぶれの挨拶をします。
 このとき呈上先の名前を書き入れた「呈上札」を先方に渡します。各町がデザインに趣向を凝らした呈上札には、本踊であれば「踊呈上」、その他「龍踊呈上」「川船呈上」などと書いてあります。昭和39年(1964)までは「傘鉾呈上」もありましたが、交通事情の変化などもあり、傘鉾の庭先まわりは廃止されました。

趣向を凝らした踊町の呈上札
 ▲趣向を凝らした踊町の呈上札

 呈上を受けた個人宅や商店は、裏に住所と個人名や商店名を墨書した「花紙」を用意しておき、帳面方に渡します。御花(御祝儀)は後ほどお届けに上がります、という約束手形みたいなものです。近頃その場で現金を渡す方もおられますが、くんち終了後すみやかに町事務所へ届けるのがしきたりです。

花紙
 ▲花紙

 花紙は白地に緑色のあばれ熨斗に、赤色で「花」と大書がしてある四角いもので、庭見せに町や出演者に贈る金品にも必ずこの花紙をつけます。これが文房具屋などの店頭に姿を見せると、長崎人はくんちの足音が聞こえるような気分になるのです。
 この花紙、『長崎名勝図絵』や川原慶賀が描いたくんち図など江戸時代の絵画に見られるので、古くからあったようですが、他都市の祭礼では見られない長崎独特のもののようです。江戸時代、芝居の世界で役者や芸人に与える祝儀や金品の贈物をはな(「纏頭」や「花」と表記)とよんでいますので、その影響のようです。
 近年、呈上を受ける方の前に立ちはだかって、平気で写真を撮影する人々も見受けられますが、それはご法度。呈上を受ける方の邪魔にならないよう、見物のルールも守って欲しいものです。最終日、庭先まわりを全て終えての町内での舞い納めも、無事奉納を済ませることが出来ましたと、町内の方々に感謝を込めた報告でもあります。多くの追っかけが、遅くまで見物に集まってくださるのは嬉しい反面、ここはご苦労された町内の方々に正面席は譲って欲しいもの。御見物衆も、くんちのそのときどきの意味を大事にすることで、長く培われた伝統に触れることにもなるでしょう。

庭先調べ

 くんちでは町や出演者のお祝いの金品や、庭先呈上のお礼も、すべて「御花(おはな)」といいます。
 現在、長崎市から間接的に補助金はあるものの、踊町内での寄付(各町によって協賛金や奉賛金とよんでいるところもあります)、そして庭先まわりでの御花が踊町の財源になっているといっていいでしょう。
 庭先まわりで効率よく移動していくために、踊町の帳面方や根曳連中は稽古の合間を縫って「庭先調べ」を行います。実際にルートを歩いて、呈上の順序を決めていくのです。7年前の「庭先帳」を基にしますが、近年町の変化は目まぐるしく、商店などが代替りしたり、1軒家がマンションに建て替わっていたりしています。呈上先の名前を確認したいところですが、表札はなく、郵便受けにも名前を記入しない家も多くなりました。マンションともなると、名札がある方が珍しいくらいです。それでなくても、市内中心部はさらにマンションやビルの建設ラッシュです。今後の庭先まわりはどう変化していくのでしょうか。
 帳面は美濃紙二つ折りの和綴じで墨書していたのですが、近頃はパソコンで作成する町も増えてきたようです。

江戸時代、近代の庭先まわり

 くんちは当初、旧暦9月7日(神幸〈お下り〉)9日(還幸〈お上り〉)でした。寛政4年(1792)からくんちは9月9日と11日に変更されました。江戸時代は、現在のような「中日」はなかったのです。文政9年(1826)の桶屋町乙名、藤家の日記によると、9日は諏訪社、西役所、御旅所、出島、用屋敷、御代官屋敷の後、町年寄の家々の後、乙名(おとな)の家などをまわり、およそ50件に呈上しています。11日はおよそ60件です。この当時、多くの家に庭先まわりをすることはありませんでした。
 個人の家や店舗に庭先回りをするようになったのは、明治期に入ってからだと思われます。くんちに中日が加わり、現在のような3日間になったのも、庭先まわりの件数が増えたことと関係があるかもしれませんが、確かな資料はありません。
 東濵町の資料(『東濵町御神事記録』長崎歴史民俗資料館蔵)によると、明治29年(1896)は庭先まわりの花の受領数がおよそ370件、大正7年(1918)がおよそ505件、昭和7年(1932)がおよそ640件と次第に多くなっています。庭数が増えて行ったことが分かります。
 庭数は現在より少ないのですが、戦前までは庭先まわりの範囲が広く、東部は西山、中川、北部は御船蔵町、南部は浪の平町、古河町まで回っていました。

庭見せ

 10月3日は庭見せが行われます。踊町では家紋を染め抜いた幔幕(まんまく)を張り、傘鉾や曳き物、新調の衣装や道具類を披露します。以前は庭を開放し、家代々に伝わる屏風や掛け軸、調度品などを披露しましたが、近年は長崎独特の町屋が少なくなり、庭がある家も珍しくなりました。それでも宗和(そうわ)台に柿や栗、桃饅頭を盛り、友人、知人から頂いた「御花」(御祝の品々)も飾ります。現在ではビルの一角やガレージ、公園などを利用して、合同で展示するところが増えました。
 出演者への御花は、10月に入ったら早々に自宅に届けにあがりなさいといわれたものですが、近頃は自宅ではなく、他所に合同で飾ることも多くなったために、品物を届けたり、配達してもらうタイミングが難しいものです。またスペースが限られているために、個人の御花は飾らない様、申し合わせている町もあります。どのような状況なのか、庭見せの場所をお尋ねしたうえで、御花の手配された方が賢明でしょう。
 「私が差し上げたものはどこに飾ってあるかしら」、「うちの会社が差し上げたものは目立たなかった」なんて野暮を言ってはいけません。庭見せは御花の陳列会ではありません。
 意匠を凝らした出し物や傘鉾、そして衣装をじっくりと眺めましょう。まじかで堪能できる貴重な機会です。
 なお、庭見せに御花を贈っても、庭先まわりの呈上を受けたら、別途御花(御祝儀)は町事務所に届けなければなりません。

10月3日の夜は庭見せ
▲10月3日の夜は庭見せ
昔ながらの庭見せが見られることも
▲昔ながらの庭見せが見られることも

 「近頃は花の持っていきみちも知らんもんのおってのー(花の持っていき方も知らない者がおってね)」とおっちゃま連中は嘆きます。御花(御祝儀)はくんち本番が終われば、早々に各踊町の町事務所に届けるのがしきたりです。
 持参しないばかりか、「集金に来てください」などと電話が掛かってきたり、振込みますので請求書を送ってください、なんて会社などもあったと聞きます。踊町の役員は「時代が変わりましたな」と呆れていました。

町事務所は町旗と大きな提灯が目印
 ▲町事務所は町旗と大きな提灯が目印

 中央から転勤で来られた支社長や管理職は、しきたりが分からない。部下が教えてあげればいいものを地元でもしきたりを知らない人が多くなってきました。
 昭和37年(1962)住居表示に関する法律の制定で、長崎市では翌年から町界町名変更が実施されました。現在、踊町は町界町名変更以後の新しい町で運営しているところ、旧町で運営しているところがあり、複雑な形態になっています。紺屋町、新橋町、西古川町、東濵町、西濵町などは、行政上にはない町名です。歌謡曲のタイトルをお借りすると「昔の名前で出ています」というわけです。西古川町の町事務所が万屋町だったり、新橋町の町事務所が諏訪町であったりしますので、市外から引っ越してこられた方などは分かりにくいかもしれませんが、長崎の歴史ある旧町名を知るチャンスにもなるでしょう。
 庭先まわりを断る商店や会社もあります。全国展開のフランチャイズ店など、無下もなく「うちはけっこうです」なんてことも。くんち見物の客で賑わっている店内を横目に、「そうですか」と引き下がるしかありません。
 会社や銀行などの支店では、予算の計上が認められず、やむなく支店長のポケットマネーからというところもあるようで、住民とのコミュニケーションを大事にしなければいけない出先機関としては頭が痛いところでもあります。
 庭を打って迷惑顔をされることもありますが、打たないと「うちは花も出せない程、潰れかかっているようにみえるのか」ときつくお叱りを受けることもあります。
 庭先まわりの範ちゅうでない地区の方が、楽しませて頂きありがとうございましたと、わざわざ町事務所に御花を届けてくださることもあります。金額よりその気持ちが嬉しいものです。

花御礼

花御礼の札
 ▲花御礼の札

 10月中旬から下旬にかけて、くんちが終わったというのに、またまた唐人パッチ姿が行き来するのを目にすることがあります。呈上先に「花御礼」に伺うのです。御花を頂いたところには、文字通り御礼であり、まだのところにはやんわりと催促の意味もあるのです。
 呈上札と同じように各町趣向を凝らした「花御礼」の札を渡します。これには宛名は書きません。
 出演者も、御花を頂いたところには、それぞれが花御礼に伺います。長崎では御花の返礼は必要ないとされてきました。子どもたちは本番の衣装で伺ったものです。近頃は手ぬぐいや、さらに品物を添える人も多くなりました。個人の名前入りの手ぬぐいも一般的になったのは昭和40年(1965)代以降のようです。
 踊町は7年に1度ですが、踊町の範囲の家々は、毎年ほかの踊町に花を打つことになります。庭先の呈上は嬉しいけれど、10月の家計はちょいと厳しいものです。けれども持ちつ持たれつ、踊町に居住する人たちの相互扶助でくんちは成り立っているともいえるかもしれません。「くんちは見るもんはよかけど、するもんはたいへん(くんちは見る人はいいけど、やる方はたいへん)」とは踊町の繰り言です。
 長崎庶民の心意気の表れが、「御花」であるのかもしれません。

他のコラムを読む

 ⇒ 長崎くんちコラム(第1回)傘鉾のはなし


参考文献:
大田由紀『長崎くんち考』長崎文献社 2013年
大田由紀「花は長崎庶民の心意気」『樂30号』イーズワークス 2015年
永島正一『続長崎ものしり手帳』長崎放送 1977年
丹羽漢吉『長崎くんちの栞』8版 長崎伝統芸能振興会 2011年

文:大田由紀
長崎市生まれ。NBC長崎放送で主に長崎の人や歴史をテーマにした番組製作に携わる。長崎純心大学大学院で博士号(学術・文化)取得。長崎くんちや女性史、演芸などを中心とした長崎の歴史の研究調査、執筆活動を続ける。
関連の著書に「もうひとつの長崎ぶらぶら節」長崎女性史研究会編『長崎の女たち第2集』(長崎文献社2007)、『長崎くんち考』(長崎文献社2013)、「長崎くんちの名物・阿蘭陀万歳」『長崎談叢』百輯(長崎史談会2015)、「写された明治の長崎くんち」植木行宣・樋口昭編『民俗文化の伝播と変容』(岩田書店2017)など。季刊誌『樂』で「長崎ひと物語」連載中。
山鉾屋台研究会会員、長崎史談会会員、長崎女性史研究会会員。

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