第 1 回
傘鉾のはなし

長崎くんち(以下くんちと記述)の奉納踊は、斬新な趣向で見る人を驚かせたり、意表をつく、風流(ふりゅう)という美意識が生き続けてきた祭礼だといわれます。これを特に象徴しているのは傘鉾です。
くんちの踊町(江戸時代は御供町と称した)の先頭に立つのが傘鉾です。傘鉾は全国の祭礼や盆祭りの行事にみられるものですが、長崎では町印として発展しました。長崎県下でも平戸市生月町館浦盆踊り、大村市須古踊り、諫早市飯盛町田結浮立などにも傘鉾が登場します。かつては平戸城下のくんち行列にも傘鉾があり、「亀岡と平戸年中行事の図」(松浦史料博物館蔵)に傘鉾行列が描かれています。
 全国の傘鉾には、初期の風流傘の形態から時代を経て徐々に大きくなり、台を付けて担いだり、車を付けて曳いたりするように変化していったものが少なくありません。京都祇園祭は現在34の山鉾が巡行しますが(鷹山は唐櫃のみ)、四条傘鉾と綾傘鉾は、傘の形状を残しています。熊本県八代市妙見祭には9基の笠鉾が旧城下の町々から出されています。かつては担いでいましたが、昭和20年~30年代にタイヤをつけて曳くようになりました。現在、傘鉾菊慈童が一部の区間で担ぎを復活させています。
 くんちの傘鉾は、1人で担ぐ傘鉾としては、最大の大きさになったところに特長があります。また、100キロ以上の傘鉾を回すというパフォーマンスを見せるのは、他の地方ではみられません。

(長崎では現在「傘鉾」を慣用していますが、他都市では「笠鉾」を使用しているところがあります。長崎でも時代を遡ると「笠鉾」の文字を使用している例がみられます。他都市祭礼での固有名詞や論考の引用はそのまま使用します。)

長崎くんちの傘鉾(出島町)
八代妙見祭宮之町笠鉾「菊慈童」
京都祇園祭「四条傘鉾」
傘鉾の構造

傘の上部を「出し(だし)」または「飾」といいます。傘の縁(ふち)に「輪」があり、輪にはビロードや注連縄、蛇籠(じゃかご)などがあります。輪は本体が籠で作られており、「注連縄」は本体の籠に藁を一本一本貼り付け、形を作ったもので、出しが鳥居や神社にゆかりのあるものに用いられます。「蛇籠」は籠のなかに張りぼての小石を詰め、出しが川や水に因んだもののときに使用されます。

傘鉾の中で、唯一輪がないものがあります。船大工町の傘鉾で、出しは棟上げの式具という意匠です。一見軽そうですが、バランスのとりにくい、傘鉾持ち泣かせの傘鉾だそうです。

輪の下には幕を掛けまわします。「垂れ」または「さがり」といいます。踊町のなかには2枚の垂れを所持し、前日と後日に掛け替える町もあります。

垂れの内部には、傘に差し込まれた心棒があり、これに横木が2本付き、傘鉾持ちはうこん木綿の布団をあてた上の木を肩にあて、下の木をにぎって担ぐのです。

傘の下には鈴(りん)を結び付けます。一歩進むごとに、りーんりーんと涼やかな音をたてます。長崎っ子にとっては、シャギリとともに郷愁を誘う音色です。鈴は京都祇園祭の山鉾上の飾にも吊るされていますし、博多松ばやしの傘鉾には長崎のように傘の下に取り付けられています。

傘鉾は100キロ以上あるといわれ、心棒の下には紐に通した一文銭が2,500から3,000枚結び付けられています。重さの均整を取るためです。以前は長崎近郊の農家の力自慢が担いでいましたが、現在は市内6地区の人たちが組織する長崎傘鉾組合が各町の依頼を受けて出演しています。

丹羽漢吉『長崎くんちの栞』
(長崎伝統芸能振興会)より
勢いよく回る傘鉾(諏訪町)
構造が分かる
初期の傘鉾は軽々と持った

初期のくんちの傘鉾は、軍配や宝珠などをあしらっただけの簡素な出しと、短い垂れが掛け回され、軽々と担ぎ上げていました。富山県城端曳山祭りの傘鉾は、くんちの初期のものを彷彿とさせます。

江戸時代中期になると出しも垂れも贅を尽くし、美術工芸品としての価値を高めます。
文政年間に書かれたといわれる『長崎名勝図絵』には、「一町の踊毎に笠鉾と称すものあり、是竹を組み笠とし大きさ五尺桶の如く」とあり、傘鉾が巨大化したことが分かります。垂れに使用した羅紗(ラシャ)などの布は、海外から輸入された希少で高価なものでした。それを潤沢に使用し、長崎刺繍などを施したりしました。また京都あたりに発注した金糸銀糸をふんだんに使った織物なども使用しています。

華美で贅沢になるくんちに、長崎奉行は簡素倹約の令をたびたび出しています。木綿の着用を促したり、踊町への貸与金を減額するなどの記録が残されています。
初期は簡素な造りだった傘鉾は、各踊町が競うように豪華になっていき、江戸時代後期には一人で持てる最大の大きさへと変貌を遂げます。その背景には長崎町人の遊び心と財力がありました。

初期の傘鉾「諏訪祭礼図屏風」部分
(富貴楼旧蔵)
富山県城端曳山祭りの傘鉾
傘鉾細見

各踊町の傘鉾はどんな意匠が凝らされているか、現在くんちで見ることが出来ない傘鉾も含めて紹介してみましょう。

傘鉾の出しは町名に因んだもの、神事に因んだもの、奉納踊に因んだものなどがあります。
鍛冶屋町は鍛冶屋が多かった町です。能の「小鍛冶(こかじ)」から題材をとり、三条宗近の槌が刀を打つと、童子の顔が狐の面に変わるというからくりです。明和7年(1770)製作のものと伝わっています。鍛冶屋町は大正2年(1913)今鍛冶屋町と出来鍛冶屋町の2つの町が合併した町です。出来鍛冶屋町の出しは、大きな薬缶(やかん)でした。町の合併で、出しが出来鍛冶屋町の「小鍛冶」、垂れが今鍛冶屋町の「七福神」と2つの町のものを合せたものになりました。

今鍛冶屋町傘鉾
(明治42年の絵葉書・個人蔵)
出来鍛冶屋町の傘鉾
(明治41年の絵葉書・個人蔵)
桶屋町傘鉾の出し

からくりは桶屋町の出しにもみられます。時計の針が動き、象が鼻を巻き上げ、オランダ人が鐘を打つというからくりで、安永元年(1772)製作のものと伝わっています。垂れは同年に製作されたという長崎刺繍による十二支というものでしたが、現在は使用されておらず、10月3日の庭見せでのみ公開されています。


他にもからくりは、桜町の傘鉾にもありました。太平記に登場する児島高徳の故事にちなんだもので、桜の花びらがはらはらと散る仕掛けでした。
ビードロ細工は、東古川町、榎津町など数ヵ町の傘鉾に見られますが、特に魚の町の魚籠、葦、鯛などの細工は、嘉永6年(1853)町内の玉屋硝子細工所の作とされ、国内のビードロ細工としては最大といわれています。

本下町傘鉾の出し 大正13年絵葉書部分(個人蔵)

本下町の出しは、楠木正成・正行父子の「桜井の別れ」を題材としていました。正成、正行の人形は、江戸時代末から明治にかけて活躍した人形師、安本亀八製作の「生(いき)人形」といわれています。 亀八は肥後熊本の出身で、生身の人間の姿を写実的に創作した生人形の制作者として、松本喜三郎と腕を競いました。この傘鉾は現在見ることができませんが、2体の生き人形は、長崎歴史文化博物館の所蔵庫に眠っています。

諏訪町はかつての諏訪神社の門前町でした。垂れは、長野県諏訪大社に伝わる武田信玄が着用したといわれる諏訪法性(すわほっしょう)の兜に因んだ「本朝二十四孝」を題材にしたもので、諏訪大社の鳥居と今しも氷の上を走り出ようとする白狐が長崎刺繍で施されています。現在の出しは、諏訪神社の紋である梶の葉の置物と松ですが、明治期までは諏訪法性の兜と鎧櫃(よろいびつ)でした。このように出しと垂れが対になったものも多かったのです。

万屋町の傘鉾
(大正11年の絵葉書)個人蔵
江戸時代に制作された長崎刺繍の鯛
(万屋通り町会蔵)

万屋町の傘鉾はこの町に魚問屋があったことに因み、出しは平樽に鰹節、垂れは16種29匹の長崎刺繍の「魚尽し」です。刺繍は文政10年(1827)縫屋幸助による作品と、弘化5年(1848)塩屋熊吉による作品の新旧2種が混在していました。刺繍内部に綿などを含ませ、立体感があります。また、刺繍の上から彩色して微妙な色のグラデーションが表現されています。長崎の画家、原南嶺斉(はらなんれいさい)が実際に魚を樽で泳がせて写生したといわれています。この下絵は、イギリスを経て、現在はアメリカ、マサチューセッツ州ピーボディ・エセックス博物館に所蔵されています。町では江戸時代の刺繍を保存するために、現在唯一の長崎刺繍職人である嘉勢照太氏(長崎県無形文化財技術保持者)に「魚尽し」の新調を依頼、10年がかりで製作された垂れは平成25年(2013)にお披露目されました。現在万屋町の垂れは鮮やかな赤色ですが、大正時代は水色の垂れだったそうです。

西濵町傘鉾(前日)

西濵町の傘鉾は長崎の傘鉾を代表するものです。出しは「紅葉した楓に菊花、貝桶に蛤」という趣向で、貝と貝合わせは京都の職人によるもの、貝箱の源氏絵は長崎画壇の大御所といわれた石崎融思(ゆうし)の絵です。文化文政の頃に製作されたといわれます。垂れ(前日)はオランダ渡りの羅紗地に、姑蘇(こそ)十八景図(現在の蘇州の名所絵)を長崎刺繍で仕上げています。唐絵目利も務めた画家、荒木千洲が下絵を描いています。また、黒ビロードの輪(裏側)のローマ字は、明治12年(1879)に長崎を訪れた北極探検隊長ノルデンショルド が書いた文字を刺繍したもので、明治19年(1886)のくんちから使用しました。

船津町の出しは真っ白い帆を張った芦分船で、朝もやの中、踊馬場に白帆がすーっと登場するという趣向は、ため息が出るような洒落た演出だったと語り草になっていました。東濵町は大蛤が気を吐いて楼閣を描くという中国の故事「蜃気楼」にちなんだものです。大村町は元禄8年(1695)書家北山雪山が揮毫したと伝わる金色の串抜き三つ団子、馬町は馬具、豊後町はお多福の面と檜扇・鈴など神楽の道具、麴屋町は紅白梅の古木と3枚の麹蓋。後日の垂れは画家小波魚青が描いた花鳥画で、魚青極致の作と絶賛されたものでした。ほかにも特色のある傘鉾が数多く登場していました。

祭礼研究の第一人者である植木行宣氏(全国山・鉾・屋台保存連合会顧問)は、「豪華な布(裂)をふんだんに使うのは、京都の祇園祭の山車や鉾の下がりと同じように文化度の高さの反映である」と指摘します。また、「傘鉾に用いたビードロ飾や、中国から伝わった立体的な技法の長崎刺繍は、当時もっとも先端的な京都でも見られないものであり、技術の高さを示している」と評価しています。本物志向の長崎町人の文化水準が見てとれます。

戦前までのくんちには、風流を象徴するような趣向を凝らした数々の傘鉾が登場したのですが、原爆により焼失したり損傷の激しいものもあり、戦後のくんちには傘鉾なしで参加した踊町もありました。また経費や人手の問題で辞退を余儀なくされる踊町も増えていきました。昭和37年(1962)に施行された「住居表示に関する法律」による町界町名変更で町域が変更になったり、旧来の町名が失われたりしたことで、くんちに参加する踊町の数がさらに減少しました。現在は町界町名以前の旧町で参加する町、以後の新しい町で参加するところがありますが、見事な傘鉾の数々が現在見られないことはひじょうに残念です。辞退が続く町の傘鉾がどうなったか、気が揉めるところです。

富裕者が町に貢献、傘鉾の一手持ち

傘鉾が豪華に発達していった背景のひとつに裕福な長崎町人の存在がありました。かつては傘鉾を作る費用、傘鉾に掛かる一切の費用を一軒で負担する「傘鉾の一手持ち」あるいは「傘鉾町人」とよばれる人がいました。一手持ちには裕福な者が誰でもなれたわけではありません。代々その町に住み、町の誰もが認める人格者でなければなれませんでした。
長崎では「偉くなれ」という代わりに、「傘鉾ば持つごとならんばのー」と言われていたそうです。傘鉾一手持ちは長崎町人のあこがれであり、目標であったのです。

前述した西濵町の傘鉾は、江戸時代から商家の森家の一手持ちでした。森家の屋号は「雪屋」で、江戸時代中期の元禄年間に創業、初代森喜左衛門から11代まで続く、長崎を代表する荒物商でした。前日の垂れ「姑蘇十八景図」は8代目森栄之、後日の垂れは、明治33年(1900)に9代目森喜智郎の時代に作ったものです。 喜智郎は区会議員や長崎商工会会頭も務めています。昭和4年(1929)の西濵町『御神事記録簿』 によると、傘鉾の経費とは別に町内の寄付は森喜智郎が筆頭の800円です。当時の大工手間2円50銭、米一升38銭の時代です。財を得た町民がくんちにどれほど費用をつぎ込んでいたかうかがえます。町内への奉仕であり、町への利益の還元でもありました。

「雪屋」森家の人々と傘鉾(昭和初期)
森保彦氏所蔵

今紺屋町は質商山田家が一手持ちでした。箱書きから、出しは明治11年(1878)に作製されたものと分かりました。明治44年(1911)には前日と後日用の垂れ2本を同時に新調しています。山田家は戦争の激化を懸念し、昭和17年(1942)11月町内に傘鉾を寄贈、その後も山田家に保管していましたが、昭和20年(1945)強制疎開で立ち退きになり、町内の人々の手で保存され、現在も紺屋町の傘鉾として使用されています。

榎津町は質商高見家が一手持ちでした。明治4年(1871)にはビードロ細工の掛鯛の出しと2枚の垂れを作成、傘鉾関係の出費は232両、当時と貨幣価値は異なりますが、およそ2,300万円ぐらいでしょうか。しかしながら現代ではその金額で作成することは無理です。残念ながら技術も継承されていません。くんちによって長崎の美術工芸の粋が高められてきたのです。

一手持ちの家は、くんちの間、傘鉾持ちや加勢の人々を自宅に泊め、3度の食事の世話までするのですから、一家の主婦をはじめ家族親戚総出で寝る暇もなかったことでしょう。

ほかに一手持ちだったといわれるのは、寄合町の「引田屋」(「花月楼」)の山口家、銅座町は倉庫業を営む永見家、榎津町は質商高見家、麹屋町は骨董商「池正」池島家、上筑後町は長崎随一の料亭といわれた「迎陽亭」杉山家、本籠町は森家、袋町は朱印船貿易家糸屋随右衛門の流れをくむ糸屋家、萬歳町は旅館「上野屋」の上野家、八幡町は永島家などでした。酒屋町は「大和屋」島田家が文化の頃より明治初めまで奉納、その後松田家に引き継がれました。松田家は、長崎本商人(五カ所本商人)の対馬屋勝五郎(のちの松田勝五郎)、甥の松田源五郎などを輩出した一族です。源五郎は明治4年(1871)12月「国立十八銀行」の前身「永見松田商社」を創立、のちに第十八国立銀行の2代頭取をつとめています。なお実父の鶴野熊吉(久間吉)は、万屋町の傘鉾垂れ「魚尽し」を制作した人物です。油屋町の傘鉾は幕末の貿易商大浦慶が一手持ちだったと町内には伝わっています。

傘鉾の一手持ちがいつ頃から登場したか、はっきりした記録はありません。
元長崎県立図書館長永島正一氏は、萬屋町の傘鉾は唐通事の官梅三十郎が一手持ちを務めたことがあると記述しています。「明和8年(1771)、萬屋町は相撲踊を出し、そのとき傘鉾の出しも『酒樽に投げ花』という威勢のよいものに変更したが、それ以前の出しは官梅の家名に因んで「寒紅梅に丸め雪」という風雅なものであった」(『続長崎ものしり手帳』)官梅家は当時東濵町に住んでいましたが、萬屋町に土地を所有する箇所持町人だったので、傘鉾町人をつとめたといいます。萬屋町の出しは、安永7年(1778)に「鯨曳」(現在は「鯨の潮吹き」と称する)が奉納踊となってからは、現在の趣向と同じ「酒樽に組鰹」に変わったそうです。官梅家がいつまで一手持ちをつとめたかは定かではありません。

文化9年(1812)、天保4年(1833)桶屋町は町内の打橋家に一手持ちを依頼したと『藤家日記』(長崎歴史文化博物館収蔵)には記されています。

天保5年(1834)の中山家「諏訪町御神事踊諸入用小前帳」(長崎シーボルト記念館蔵)には傘鉾に関する費用がまったく記されていないことから、この頃の諏訪町にも傘鉾町人がいたと思われます。

『鎮西日報』によると、明治24年(1891)11町のうち7町が一手持ちの傘鉾です。各町に富裕者が多かったのでしょう。また文化的な素養を持つ風雅な人が多かったともいえます。
しかしながら、第一次世界大戦後の世界恐慌や昭和初めの昭和金融恐慌の影響は長崎にも及び、長崎の経済基盤をも脅かすことになります。このようなことから大正、昭和になると傘鉾町人だけで傘鉾を維持していくのが困難となり、町にゆだねられるようになりました。銅座町の永見徳太郎は大正14年(1925)の踊町を前に傘鉾一揃いを銅座町に寄贈しています。町内からの感謝状は長崎歴史文化博物館に残されています。
現在、傘鉾はすべて「町持ち」になり、各踊町の所有です。

傘鉾はいつから回した?
勢いよく回る傘鉾(江戸町)

かつて傘鉾は現在のように回していませんでした。嘉永年間に高宮栄斎が書いた『長崎不二賛』(長崎歴史文化博物館所蔵)には、「町々順次ありて、まずこの傘鉾を出し、踊り場に突き立つる。(中略)傘鉾をしばし裏へ廻し横を見せて入るなり。町毎にかくの如し 」 とあります。傘鉾はどこから見てもいいような趣向が凝らされているので、それを四方の観客に披露するのが目的であったようです。

明治35年(1902)の『鎮西日報』には「忽(たちま)ちに急転、忽ちに静粛、大うねり小うねり、雄浪雌浪の岸辺を打つが如く、数萬人の拍手は諏訪の森に轟きて、呼び戻しの八回に及びしも道理なり」と、傘鉾回しの技に見物人が驚喜する様がいきいきと描写されています。

本川桂川は大正中頃の様子を「自転しつつ馬場一ぱいの円を描き、或いは前に或いは後ろに歩み移動しつつ回転し、急霰の如き拍手と歓呼とを後に残して石段を大鳥居の方へ駆け下る」(『長崎の匂いと彩どり』)と、現在の傘鉾回しと変わらないような描写をしています。

林源吉は、昭和4年(1929)10月発行の「長崎の傘鉾」(『長崎談叢』第5輯)に「傘鉾は直立して廻り、或いは円を描いて大きく廻り、房しめ縄が一文字を描くまで勢い良く廻る 」と記しています。この頃になると、傘鉾の輪に差し込んである房やしめ縄が一直線になるほど勢いよく回転していました。このような記述から、傘鉾を回すようになったのは明治中期以降ではないかと考えられます。

明治13年(1880)の「榎津町傘鉾庭先簿」(長崎歴史文化博物館蔵)によると、傘鉾は630件庭先まわりを行っています。明治時代から昭和初期の庭先まわりは、踊町区域外の中川、西山、大浦海岸通、小曽根町、上田町まで呈上しています。明治時代のくんちは、江戸時代と同じく前日と後日でしたので、2日間で630件の庭を打ったと思われます。傘鉾持ちは、相当な体力と技量を持っていたのでしょう。すべての家々の前で回したのではなく、心棒の底を家の前に付けるというのが定番だったようです。庭先簿の「西坂 本蓮寺脇、堤福太郎」に「傘鉾上リキラズ」という書き込みがあり、長崎の特長でもある坂に難儀した様子が分かります。
傘鉾の庭先まわりは踊町の簡略化のために、昭和39年(1964)を最後に廃止になりましたが、車の通行が多くなり、傘鉾の運行には不向きな社会状況になったことも大きかったといえます。


資料提供:堀田武弘

文中写真:筆者撮影

参考文献:
植木行宣『山・鉾・屋台の祭り―風流の開花』白水社 2001年
大田由紀『長崎くんち考』長崎文献社 2013年
古賀十二郎編『長崎市史』(風俗編上巻)長崎市役所 1925年
永島正一『続々長崎ものしり手帳』長崎放送 1983年

参考映像:
国立歴史民俗博物館民俗研究映像「風流のまつり長崎くんち」2000年

文:大田由紀
長崎市生まれ。NBC長崎放送で主に長崎の人や歴史をテーマにした番組製作に携わる。退職後、長崎純心大学大学院で博士号(学術・文化)取得。
主な著書に「もうひとつの長崎ぶらぶら節」長崎女性史研究会編『長崎の女たち第2集』(長崎文献社2007)、『長崎くんち考』(長崎文献社2013)、「長崎くんちの名物・阿蘭陀万歳」『長崎談叢』百輯(長崎史談会2015)、「写された明治の長崎くんち」植木行宣・樋口昭編『民俗文化の伝播と変容』(岩田書店2017)など。季刊誌『樂』で「長崎ひと物語」連載中。
山鉾屋台研究会会員、長崎史談会理事、長崎女性史研究会会員。