第 3 回 戦後の長崎くんち 御旅所の変遷 原爆投下やその二次火災で全町域焼失したのは踊町の内11町にものぼり、一部焼失した町や建物疎開を入れると踊町の半数近くが被災しています。また傘鉾を焼失や破損した町もあり、戦後の長崎くんち(以下、くんちと記述)には傘鉾なしで参加した町もありました。 戦後初の奉納踊は、原爆投下から2か月も経っていない昭和20年(1945)10月7日に行われています。これは踊町としての奉納ではないのですが、料亭花月の本田寅之助氏が推進役となり、丸山東検番の芸妓衆(げいこし)の有志が本踊「神田祭」を奉納したのです。長崎新聞(8日朝刊)には、「どこで伝え聞いたのか、どーつと押し寄せた市民の群れも長坂に鈴生りになって(略)」とあり、長崎っ子のはしゃぎっぷりが伝わってきます。 昭和23年上筑後町、傘鉾なしで、西彼杵郡長与村(現長与町)の獅子踊りを奉納(林源吉氏旧蔵) 昭和21年(1946)は寄合町「傘鉾・本踊」、踊り当番町合同「本踊」、連合町「本踊」、東古川町「川船」を奉納、昭和22年(1947)は丸山町だけが8日に傘鉾と本踊を奉納しています。 昭和23年(1948)は、昭和12年(1937)以降変則続きであったくんちが、旧来の姿に近づいた年でもありました。踊町は傘鉾だけの町や、一方では傘鉾を出せない町もありましたが、特別参加4町が加わり、10町が奉納しました。長崎市は観光誘致にも力を入れ、駅前には高さ6メートルの宣伝塔を立て、宣伝ポスターも作りました。新聞には、汽車は平日の3倍、長崎市営交通船が平日の2倍強、九州商船が沿岸航路4割増しとあり、くんち気分に沸き返った様子が分かります。 御旅所の変遷 昭和21年(1946)、22年(1947)は、大波止を進駐軍が駐車場として使用していたため、御旅所は設けられず、神幸行列は両年とも中心部を一巡、“日帰り”の巡行でした。23年(1948)は浜屋百貨店裏に設けられました。昭和24年(1949)、25年(1950)、26年(1951)は、萬歳町(現万才町)地方裁判所前の空地でした。 昭和24年御旅所(地裁前空地)前の船大工町川船(川原直子氏旧蔵) 写真は船大工町の川船の一行が御旅所前で待機しているところです。現在の国道34号線沿いですが、この付近は原爆の二次火災で焼失したところで、まだバラック建ての住居もあり、戦後の混沌とした様子がうかがえます。写真左上は原爆の二次火災で焼失した県庁跡地。この地に旧県庁が再建されるのは、4年後の昭和28年(1953)のことです。このような状況の中で船大工町は川船を新調しています。「戦後の復興はまずくんちから」という思いがあったのでしょう。 この年は3日の庭見せと、昭和12年(1937)から途絶えていた諏訪踊馬場桟敷が14年振りに復活した年でもありました。 その後、御旅所は、昭和27年(1952)から30年(1955)までは江戸町(現江戸町公園)、31年(1956)は旧県庁前の広場でした。大波止に御旅所がようやく戻ったのは、翌年の32年(1957)のことでした。 昭和31年の御旅所は旧県庁前広場桶屋町本踊(吉田光子氏旧蔵) 御旅所は昭和32年から大波止(昭和33年、山下寛一氏蔵) 阿蘭陀万歳初登場 くんち初お目見えの阿蘭陀万歳昭和26年八坂神社(料亭一力蔵) くんちの名物のひとつである「阿蘭陀万歳」の初お目見えは、昭和26年(1951)です。「阿蘭陀万歳」は長崎生まれだと思っている人が多いのですが、初演は昭和8年(1933)東京の花柳流舞踊会です。翌年の昭和9年(1934)、長崎国際産業観光博覧会で町検番が披露し、昭和24年(1949)のザビエル渡来4百年祭でも上演されました。このとき画家鈴木信太郎が見て、これをモチーフに何枚もの作品を描いたため、「長崎の阿蘭陀万歳」として全国に知られるようになり、これをきっかけに新橋町が本踊の演目としたのです。長崎国際産業観光博覧会で踊った町検番の凸助(でこすけ)事、花柳壽太満氏が指導し、その社中が出演しました。踊子は、ほとんどが小学生でした。コミカルな振付と異国風の衣装が人気をよび、壽太満氏は昭和29年(1954)の西上町、33年(1958)の新橋町、36年(1961)の西上町、37年(1962)の今博多町と立て続けに指導、「阿蘭陀万歳」はくんち名物として定着していったのです。 宝塚レビューも登場 市民生活も少しずつゆとりを見せはじめ、戦前とは違った趣向を凝らそうという試みも行われました。 昭和26年(1951)、大波止町(元船町・玉江町の合同)は、江戸時代の媽祖行列を再現した「入船祭り」を出しました。これは長崎育ち、新聞記者・作家として活躍した平山蘆江(ひらやまろこう)氏が考案して下絵を描いたものです。 昭和28年(1953)東浜町の本踊「唐様恋錦絵(からもようこいのにしきえ)」は、総勢300人もの出演者という大掛かりなものでした。踊子36人、邦楽は長崎検番、町内の青少年の奏楽隊が大太鼓、銅鑼、シンバル、笛などを演奏、踊馬場に本物の馬も登場、項羽と劉邦が馬上で槍を交えるという場面もあり、観客の意表をつきました。これは宝塚歌劇団で大ヒットしたグランドデビュー「虞美人」をもとに、演出家臼井鐵造氏がくんちでも演出指導をしたほか、作曲、衣装なども宝塚のスタッフがあたりました。 同年、踊町に加入した出島町は初参加し、「おらんだ船」(昭和36年からは「阿蘭陀船」と改称)と本踊を奉納しました。 大波止町(元船町・玉江町合同)の入船祭り写真は昭和33年の御旅所(広瀬直之氏旧蔵) 東濵町の本踊「唐様恋錦絵」昭和35年諏訪神社(竹谷和子氏蔵) 昭和28年出島町初登場 長崎市民運動場(旧市公会堂前広場)(吉田光子氏旧蔵) 存続の危機 現在は見ることが出来ない寄合町の傘鉾(彩色絵葉書) くんちは戦後いち早く復興して市民を勇気づけましたが、社会情勢の変化の中で、昭和30年・40年代には存続があやぶまれるような問題が押し寄せます。 長崎市では住宅地が郊外に広がり、市の中心部はドーナツ化現象で住民が減少、またマンションなどの住民は町内会に参加しないなど、踊町の住民意識にも変化があり、くんちの経費と人手不足にどこの町も頭を抱えることになります。 昭和34年(1959)は6月1日の小屋入り前になっても、踊町11町のうち丸山町だけが参加を表明しただけで、小屋入りは無期延期となりました。「長崎くんちお先まっくら」と長崎新聞が書いていますが、まさにそのとおりでした。その後7月5日に5町、8月1日に1町が小屋入りを行い、くんちは無事行われました。 このように経費や人手不足の問題で、踊町は参加したくても出来ないという状況に追い込まれ、奉納を辞退する踊町が増えていきます。これにより、年毎の踊町の数が不揃いになっていきます。 このため、昭和34年(1959)12月、踊町組み合わせが改正されました。江戸時代から続いた踊町の組み合わせを変更し、少なくとも7町は参加できるようにと、73町を7組に分け、新しい組み合わせが翌35年(1960)から実施されます。この組み合わせ改革により、参加町のバラつきはいくぶん解消されましたが、鯨の潮吹き・龍踊・コッコデショ・龍船などの人気の出し物が同じ年回りに見られるという特長もなくなりました。 次いで、丸山町、寄合町の踊町辞退という問題が生じます。両町は、くんちが始まって以来、踊町の露払いを務め、明治以降は両町が隔年で奉納してきました。両町のほとんどが貸席業で、売春防止法制定(公布は昭和31年〈1956〉5月24日、施行は昭和32年〈1957〉4月1日)の影響を受け、ほとんどが廃業せざるをえませんでした。寄合町は昭和37年(1962)を最後に、丸山町は昭和40年(1965)で踊町から姿を消しました 。(注1)また昭和40年(1965)からは、踊町の簡素化のために、傘鉾の庭先まわりが廃止になります。 くんちはどうなっとですか くんちにまた大きな試練が訪れます。昭和37年(1962)、住居表示に関する法律の制定で、長崎市でも翌年から市内全域にわたり町界町名変更が実施されることになりました。 江戸時代からの長崎の町の成り立ちは、道路で分断していくのではなく、背割り方式で、道路を挟んで向かい合せの家々が同じ町内を形成していました。道路を挟んで日々の生活を共有していた踊町の住民にとって、向かい側は別の町になりますとの提案に「くんちはどうなっとですか(どうなるんですか)」「踊町はできんですたい(できない)」と不安が広がります。 例えば江戸町は、江戸町の全部と玉江町・外浦町・本下町・築町の一部、金屋町は今町・金屋町の全部と五島町・興善町・船津町・小川町・堀町・豊後町の一部が統合されるというわけです。それまでの1つの町が2つにも3つにも分かれることにもなるのです。なによりも、江戸時代から続いた町の由来を伝える町名がなくなることは、長崎にとっても大きな損失でした。くんちは大きな存続の危機を迎えました。 昭和33年特別参加の諏訪町龍踊(御旅所、広瀬直之氏旧蔵) 昭和39年(1964)5町(うち特別参加1町)、40年(1965)6町、41年(1966)5町(うち特別参加2町)、42年(1967)6町(うち特別参加2町)と出演が減り、43年(1968)には4町(うち特別参加1町)と、苦しい状況が続きました。 そんななか、本籠町(現籠町)と諏訪町が毎年のように特別参加をしています。このため、龍踊は毎年出演すると思った観光客もいました。特別参加の協力でどうにか踊町を揃えるという努力が続いて行きました。 町界町名以降、旧来の町名の組織を維持して参加するところ、新しく組織された町として参加するところと、複雑な踊町形態となっています。 観光資源としての長崎くんち 昭和30年代後半には、日本は高度成長期を迎えます。長崎市を訪れる観光客も上昇をたどっていき、昭和38年(1963)には春日八郎の「長崎の女」が大ヒット、長崎の観光ブームを煽りました。くんちは長崎観光の目玉となっていきます。 「長崎くんち振興会」(昭和50年組織変更で長崎伝統芸能振興会と改名)は昭和34年(1959)南山手町に復元された十六番館に「おくんち資料館」を開設します。龍や船、衣装、写真などくんちに関する資料を展示し、くんちを宣伝して観光客の誘致を図り、入場料をくんちの財源に当てるためでした。 昭和50年(1975)、公会堂前の広場で「くんちの夕べ」を始めます。入場料の一部を踊町に助成する目的でした。このように長崎伝統芸能振興会を中心とした奮闘や努力が続いていきます。 奉納踊の主流が本踊から曳物へ 戦後は本踊が主流でしたが、しだいに曳物が多く登場するようになります。 昭和45年(1970)、本石灰町は本踊にかわり、「御朱印船」を初お目見えさせました。昭和49年(1974)、東浜町は長崎市出身の漫画家清水崑氏の意匠考案による「竜宮船」、昭和58年(1983)は江戸町が「オランダ船」、60年(1985)八幡町が「弓矢八幡祝い船」、同年銀屋町が「鯱太鼓」、61年(1986)賑町が「恵美寿船」(平成6年から「大漁万祝恵美須船」)に名称変更)。平成元年(1989)銅座町が「南蛮船」と、出し物を本踊から曳物や担ぎ物に変更するところが多くなりました。曳き物は多くの若者や子どもが出演できるため、町内の結束が強くなる効果もありました。しかしながら華麗な本踊が少なくなるのを寂しく思う人々もいるようです。 昭和53年(1978)官庁街で住民が少ない万才町が戦後初めて踊町に参加しました。これは、長崎青年会議所が支援したもので、新たな形態での参加の可能性を示したものといえます。 銅座町「南蛮船」は平成元年に初お目見え(平成22年諏訪神社) 昭和57年(1982)の長崎大水害では、中島川の氾濫で踊町に属する町の多くが大きな被害を受けました。被害が甚大であった本古川町は翌年に繰り延べ出演しましたが、水害で壊滅した長崎市のイメージを挽回しようと、出島町、東古川町、大黒町、樺島町の4町が奉納しました。 昨年、長崎くんち奉納踊りはコロナ禍で行われませんでしたが、いかに長崎人の心のよりどころになっているか、あらためて感じた方も多かったと思います。戦後のくんちを振り帰れば、存続の危機が何度もあり、よくぞ続けてこられたと感慨深いものがあります。その裏には先人たちの知恵と工夫、そしてくんちに対する深い愛情を感じるのです。 (注1)丸山町は平成14年(2002)から「踊町年番町年次表」の別枠から編入し、平成15年(2003)年番町をつとめ、平成18年(2006)41年振りに踊町に復帰した。 参考文献:大田由紀『長崎くんち考』(長崎文献社 2013年)長崎くんち番付 (有限会社呂紅 1950年~) 文:大田由紀長崎市生まれ。著書に「もうひとつの長崎ぶらぶら節」長崎女性史研究会編『長崎の女たち第2集』(長崎文献社2007)、『長崎くんち考』(長崎文献社2013)、「写された明治の長崎くんち」植木行宣・樋口昭編『民俗文化の伝播と変容』(岩田書店2017)など。季刊誌『樂』で「長崎ひと物語」連載中。山鉾屋台研究会会員、長崎史談会理事、長崎女性史研究会会員。 コラム一覧はこちら